イラスト:100%ORANGE
『鳥』をイメージしたイラストをお寄せいただきました。
イラスト:ヒグチユウコ
ヒッチコック作品をイメージしたイラストをお寄せいただきました。
© Yuko Higuchi.
ためしに、ヒッチコック映画をサイレントで観てみた。
セリフに頼る映画が小説的だとしたら、ヒッチコックの映画は絵本的だ。
伝えたいことを絵で捉え、視覚的に訴えている。
“表現して伝えること”のヒントがごろごろ転がっているような気がした。
その昔、映画監督にあこがれて芸大に入ったわたしの本棚にも、「定本 映画術」は並んでいる。
結局ほとんど読むことはなかったけれど、今度こそ開いてみようかな。学生の頃の、映画に心底ワクワクしていた熱い気持ちを思い出させてくれるドキュメンタリー。ヒッチコックの全作品を観たくなった!
ヒッチコックの映画手法は人真似ではなく、一から工夫に工夫を重ねてワンカットワンカット作られている。自らそうやって産みだすからこそ、人生をかけても良いくらい楽しい。
僕も昔、トリュフォーのヒッチコック映画術を読んでから 漫画に対する姿勢が決まった。この映画は、その本がいかに今の映画界に影響を与えたか、ヒッチコックの映画の作り方がいかに独創的で優れているかを語っている。とても興味深い。
全編通してエキサイティング。すべての映像作家が見るべきだとも思うが、この奥義と意識は自分達だけが知っていたいという独占欲も湧く。感じ方が少数派であればこそ観客を手玉に取る発想が生まれる。名著がまざまざと立体化、生体化した。
理解者はいつも遠いところからやってくる。ヒッチコックを最初に発見したのはフランス人の青年だった。エンターテインメントを日々の糧としている人、物創りを生業としている人、これからクリエイターを夢見ている人には必見のドキュメント。
ヒッチコックとトリュフォーの映画術は、時間と場所を超えて人をつなぐ絆になった。クリエイターの味方は、外にいる観客なのだ。
何度も観たくなる映画だ。ヒッチコックの作品のように。書籍版とはまた異なるタッチがうれしい。ことさら映画の理念を語るのではなく、ヒッチコックも、トリュフォーも、そして証言する映画監督たちもまた、創作者として、技法について語り、映像美を語り、そうした言葉に溢れる快楽に浸っているように思えた。つまりそれこそが、映画の思想になる。あらゆるクリエイターに通じる普遍性と、そしてまた、かつてヒッチコックが娯楽映画の監督として批評家に無視されたことなど関係なく、尊敬の念をこめ、クリエイターだからこそ楽しめる言葉のやりとりがなされる。ずっとその話を聞いていたい。
芸術家は、それを観る人にあんまり親切にはしない。その方がポイから。
ヒッチコックは親切だ。観客に“わかる”ことを大切にした。そうするとあまりホメてもらえない。
ねっ!正しいのはどっちだろう?ヒッチコックでしょう。トリュフォーさんに感謝!!
時代を越えて偉大なシネアストたちのコトバが衝突してゆく、その熱量にあと5時間は見ていられるがこの映画はそれをしない。結局どのような言説をどれだけ積み重ねてもヒッチコックそのものには届き得ないことを監督は慎ましく理解しているからだろう。ヒッチコックを渇望させるためだけに捧げられた至福の80分。
画とカット割りが映画の構造分析とされた中世が過ぎ、ひとえに脚本のみが観客の心を自在に操るという偏った脚本至上主義がはびこる現在、刊行50周年を迎えるこの古典に書いてある原理の第一は、「画は完全に言葉であり、無音のうちに脚本の一部である」。
菊地成孔音楽家/文筆家