コメント

誰もが心に局所麻酔を打ち、おかげでどんな残酷なことも、悲惨なことも、すべては遠景での出来事としか感じない。そうした適応の仕方をわたしたちは巧みに身につけ、ハネケ監督はそれをシニカルに再現してみせた。

春日武彦(精神科医)

ハネケの作品を観るのは憂鬱な作業だ。目も眩む暴力の煌めきを、吐き気を催すサディズムを、生理的不快感に浸りながら、期待する自分が嫌なのだ。その冷徹な職人技に畏敬の念を覚えるとともに、私は心からこのエンディングを喜んでいる。ハッピーであるかどうかは知らないが。

楠本まき(漫画家)

情け容赦のない展開を登場人物たちに浴びせかけるミヒャエル・ハネケは、それを安全な場所で眺めるわれわれ観客のことも見過ごさない。無傷のままでいられるとでも思っているのかと、一撃を加える。動揺を突きつけてくる。

岡田利規(演劇作家・小説家・チェルフィッチュ主宰)

「少女という病」の周辺には、いつも死の気配がある。
不穏な空気に最後まで決して目を逸らせない物語。

雨宮処凛(作家・活動家)

交通網の発達、インターネットの普及、カメラ越しの運動会…距離を近づけるためのツールで、人はアイコンに変わってしまった。生命尽きる瞬間すらスマホを掲げるこの世界に、温もりを取り戻せる日は来るのだろうか。

春名風花(声優)

今の時代、演説・宣伝・弁明のような公的言語が氾濫し、私的対話が絶滅しかかっている。発語は「それで?」とか「それが?」によって、遮断され、相互理解は進まない。ここから生じる滑稽と絶望がミヒャエル・ハネケの残酷喜劇を生む。例えば、この映画のような。

斎藤 学(精神科医)

空っぽな現実は、スマホの中で物語となり、情熱を取り戻す。
孤独な観察者は、そうやってかろうじて、世界に踏みとどまる。
スマホを手にした少女は、新種の人類として生き延びる。
ハッピーエンド。

土屋 豊(映画監督)

淡々と描くことによって浮き彫りになることと隠れるものがある。タイトル通りハッピーエンドだったのか。皮肉なのか。劇中の戸惑う人達の顔が頭から離れないけど、僕はどちらかといえばハッピーエンドだと思いました。

大橋裕之(漫画家)

エヴを演じた13歳の少女から、とにかく目が離せませんでした。
とにかく、最高に色っぽい。

前田エマ(モデル)

私たちは生きながら常に世界の断片しか知り得ないように、『ハッピーエンド』もまた出来事の断片のみを示しその総体を観客の想像力へと大胆に委ねてくる。そして、あらゆる人が最後には死という闇に至るとも、人生のどこかの断片においてはささやかでも救われる瞬間があるだろう。断片だからこそなしえるハッピーエンドがここにある。

深田晃司(映画監督)

ミヒャエル・ハネケとハッピーエンド。
この世にも不穏な組み合わせの中に濃縮された人間描写は、期待を裏切らぬ歪み節。なのに、ハネケ作品を見る度に隣人を愛おしく再認識する気持ちは、一体どこから来るのだろうか?

砂田麻美(映画監督)

*順不同、敬称略